後編/組織の誕生

建築家たちの取り組みは、浜松の工務店へ、そしてそこから地域の工務店へと伝わり、建築デザイン運動として全国に広がって行きます。OMソーラーの誕生です。

大企業でもない、あまり大きくない工務店や、設計者の集まりが協働して実現しようという姿勢が、画期的だったのです。それまでにない自前の技術、考え方で「循環型の気持ちの良い家」を創り上げる活動が現実に始まったのです。だから工務店も燃えた。解決した問題はたくさんあり、だからこそ、それに比例して情熱が湧き上がってきたのでしょう。

チルチンびと 別冊17『やっぱりOM』より

8. 浜松の工務店との出会い(1982年)

当時のマルモ中村住宅のパンフレット。当時のマルモ中村住宅のパンフレット。

浜松の地域工務店、マルモ中村住宅が奥村昭雄と出会ったのは1982年のことです。当時マルモ中村住宅は「檜づくりのマルモ」を売りに、浜松でも中堅ビルダーとしての地位を築いていました。しかし、他の工務店による追随はどの時代にもあり、マルモ中村住宅では、営業展開の試みとしてさまざまな勉強会を企画していました。その一連の勉強会のひとつであったヤマハ家具ショップと提携した講演会で奥村昭雄と出会ったのです。

講演会で奥村は「長い好み・長い必要・長い寿命」というフレーズを用い、住宅の本質を語っていました。スライドに映し出された住宅は、それまで接してきた住宅とは異なるもので、これからの家づくりのヒントがあるのではないかという思いが、マルモ中村住宅の担当者たちの中に芽生えました。そして、付加価値を持った建売住宅の企画を立て、その設計を依頼するために、あらためて東京の奥村事務所を訪ねました。奥村は「まず実際の建物を見てよ」と言い、向かった先が「大泉学園の家」でした。

大泉学園の家大泉学園の家

案内役は当時奥村事務所の所員で大泉学園の家の設計に携わっていた丸谷博男でした。空気集熱によるソーラーシステムの初めての試みだった大泉学園の家は、後にOMソーラーへとつながる大きな契機となる建物でしたが、その時の関心はソーラーシステムではなく、「空間のクオリティ」にありました。ベニアのすっぴん仕上げ、食卓に低く吊られたペンダント照明など、シンプル過ぎると思われる家の仕上げに心を打たれたのです。

それに比べ、当時まだ手探りの状態だったソーラーシステムは、12トンもの砕石蓄熱槽を持ったあまりに重装備なもので、この技術は地域工務店が扱える技術ではないというのがその時の正直な印象だったようです。

結局、建売住宅には煙道熱交換式ストーブが採用され、隣り合う2つの住宅として売り出されました。そして、ここでの経験が、「熱と空気のデザイン」へ向かうための道筋であったことはいうまでもありません。

9. 最初のモデルハウス建築/浜松・天竜川モデルハウス(1986年)

OMソーラー第一号となった、浜松・天竜川モデルハウス。「現代民家」と名づけられた。OMソーラー第一号となった、浜松・天竜川モデルハウス。「現代民家」と名づけられた。

地域工務店が自ら手掛ける住宅に空気式ソーラーシステムがはじめて組み込まれたのが1986年のことでした。それが、マルモ中村住宅が静岡県浜松市、天竜川駅南展示場に出展したモデルハウスでした。このモデルハウスは「現代民家」とネーミングされ、大きな屋根、深い軒、呼吸する壁など、民家の表情を持っていました。もともとパッシブシステムは、気象条件、立地条件など地域性を理解することが必要であり、自然と共存していくことが基本です。これは日本の伝統的な民家や町家などにも共通している考え方でしたから、パッシブデザインと地域工務店は元来近傍にある関係だったはずであり、出会うべくして出会ったといえます。そして、この出会いがごく自然な流れであったことは、後にOMソーラーが全国の地域工務店に広がったことで証明されています。

しかし、長年、建築家が試行錯誤してきた技術を工務店が一朝一夕に真似ることは簡単なことではありませんでした。当時は断熱や気密についての知識もあまりない時代で、現在のような集熱パネル、ハンドリングボックス、棟ダクトなどの専用部材もないため、全て現場で手づくりするしかなく、たとえ太陽で暖かい空気をつくっても空気が漏れないほうがおかしいという状況でした。奥村も「凝った和風のデザインは良かったけれど、実はあの(天竜川)モデルハウスはOMソーラーとしては能力不足だった」と言っており、工務店がこの技術を会得するにはそれなりの手間や時間を要することを伺わせていました。しかし建築地が浜松という気候温暖な地だったことも幸いしてソーラーシステムは良く働き、日中はそれなりの快適さをもたらしました。そして、当時の工務店らしからぬ建物は評判になり、1987年の元旦を期して開かれた完成見学会では1000人を超える来場者が訪れ、文字通り「千客万来」となったのです。

柔らかい温熱環境をつくるOMソーラーの特性を活かし、伸びやかなひろま空間を実現した。柔らかい温熱環境をつくるOMソーラーの特性を活かし、伸びやかなひろま空間を実現した。

評判は評判を呼び、地方の一工務店のこの取り組みが共同通信を通じて全国の地方紙に掲載されました。記事に目を留めた工務店から早速問い合わせが入り、「空気なら凍らない」「とにかく浜松に行く」「モデルハウスを見せてほしい」などの反応を受け、あらためてパッシブデザインと地域工務店の関係性の強さを認識し、次第に「この技術は浜松の一工務店に留めておくものではない」「地域を拠点とする全国の工務店がこのシステムを担うのが、このシステムの性格に最も適っている」という思いにつながっていきました。

10. 命名「OMソーラー」(1987年)

そしてソーラーシステムやパッシブデザインの試みを地域工務店に広めて、全国の地域工務店をたばねる運動にしたいという話し合いがなされています。しかし、「こんな面倒なことをやる工務店はない」「奥村ソーラーは秘技だから無理」と否定的な意見も多くありました。奥村自身も「おれはいやだよ。そんなめんどくさいこと」と言いました。野沢正光は後にこの時のやりとりを次のように振り返っています。「私たちの試みを時折浜松から現われ、横目で見ていたマルモ中村住宅のスタッフが、例の殺し文句を発します。“工務店はハウスメーカーの攻勢に苦しんでいる。この技術は地域工務店の武器となるはずである。そうした運動を起こしたいが協力してくれないか”こんな話であったと記憶している。正直、僕も奥村さんも建築家の考えたことが社会的な広がりをもった事例をほとんど知らず、“やってみたら”という消極的展望しか持たなかった記憶がある」。

また、奥村も「でき上がったもの(天竜川モデルハウス)が大きな反響を呼んだ時、マルモ中村住宅の社長は普通の人とは一寸違う考え方をした。これは自分のところだけでやるべきではなく、地域工務店に広めて普及させ、それによってこの技術を向上させると一緒に、地域工務店自身の発展にも役立たせるべきだというのである。私はそんな面倒なことはいやだといったが、押し切られてしまった」と語っています。

同じ頃、このシステムの名称について、次のようなやりとりがありました。「パッシブソーラーということで“パッソーラ”はどうかと。そしたら“パッソーラ”というオートバイがヤマハにあった(笑)。それならこの際、“奥村ソーラー”としたらどうだという話もあったけど、これも“丸山ワクチン”みたいだというのでオジャン。奥村(O)昭雄(A)のローマ字の頭文字をとって“OAソーラー”かと。でもOA機器みたいだから、奥村のOとマルモのMで、OMに落ち着いた」。そしてその後、奥村の希望からOMの「O」は「おもしろい」、「M」は「もったいない」ということに変更されましたが、自身の著書の中で奥村は名称と技術の性格に絡んで次のような言葉を残しています。「OMソーラーという名前が付いたときから、この技術は私の手を離れてひとりで走っている。大きなデザインの樹になって、たくさんの多様なデザインの花が咲くことを期待している」

マルモ中村住宅のメンバーを中心に「OMソーラー協会(代表・中村正彦 現在はOMソーラー(株))」が設立され、同時にソーラー研に参加していた主要な建築家から構成する「OM研究所(所長・奥村昭雄)」が設立されました。とにもかくにも、こうしてOMソーラーは社会に飛び出したのです。1987年2月のことでした。

11. 幸先のよいスタート/第一回会員募集説明会(1987年)

OMソーラー協会として発足した当時のA3サイズのパンフレット。OMソーラー協会として発足した当時のA3サイズのパンフレット。

会員工務店募集の説明会を知らせるDMが全国の工務店に送付されたのは、そのすぐ後のことです。送られたDMはA3サイズのパンフレットが入る大きな封筒で、「やけに大きな封筒」は、それだけで受け取る人の目を留まらせました。第一回の説明会は、1987年3月9日、グランドホテル浜松で開催されました。

説明会ではOM研究所のメンバーとなった丸谷博男が「これからの住生活と地域工務店の課題」という演題で基調講演を行い、その静かな語り口には大きな説得力があり、OMソーラーの正当性や信憑性を一手に支えました。また、OMソーラー協会からも「OMソーラー協会の事業と展望」「OMソーラーの意義と内容」といった話を行いましたが、やはり大きかったのは天竜川モデルハウスの持つ魅力でした。

モデルハウスを見学した参加者は、皆、良きものに出会えたという顔をされていました。最初の説明会への参加工務店は56社、この時に入会されたのは18社の工務店でした。OMソーラーの技術に惹かれて入会された工務店、元々「ソーラー研」とつながりのあった工務店、そして、天竜川モデルハウスの魅力に惹かれて入会した工務店など、工務店それぞれの動機や理由があったように思われます。しかし、全体を支えたのはやはり「設計」だったのです。天竜川モデルハウスには、直接的には奥村の助言があり、またバックボーンには、その師である吉村順三の設計思想が働いていました。建築的な仕掛けの多くは幾多の建築家の設計納まりの苦心が活かされていて、それは良質な日本の戦後住宅の成果の一つと言い得るものでした。参加者は多かれ少なかれ、このモデルハウスが持つ空間のクオリティを率直に感じ取り、受け止めてくれたのです。「設計」への関心が高い工務店が先ず会員となったことはOMソーラーの出発にとっての幸運でした。

12. ギリギリで間に合った準備/第一回経営者懇談会(1987年)

当時の経営者懇談会の様子。懇談会は「経営者会議」と名称を改め、現在も毎年開催されている。当時の経営者懇談会の様子。懇談会は「経営者会議」と名称を改め、現在も毎年開催されている。

最初の経営者会議が開催されたのは1987年の6月15,16,17日の3日間でした。経営者会議とは、全国のOM工務店が年一回、一堂に集まり、OMソーラーの事業方針や戦略、具体的な取り組みなどについて報告を行い、それを受けて意見交換、協議などを行う会議で、当時は1日目に経営者懇談会を開催し、2日目に技術者研修会、3日目に営業研修会を併せて開催していました。現在の全国経営者会議は大きな会場を有するホテルで開催することが多くなりましたが、第一回目の会場は地元の中高生が合宿などで良く使う「サンビーチ浜松」という施設でした。

開催にあたっては、ハンドリングボックスや棟ダクトといったOM部材の試作品が間に合うかどうかが当時の大問題でした。会員工務店に送れるパンフレットなどもありませんでした。それまでの間、「建築家によるプランニングアドバイス」なる制度を設けたり、「チラシ」や「設計カード」の送付、新聞の切り抜きに解説を付けた「ニュース」を発行するなどして、会員工務店からの信頼をつなぎ止めるのに必死でした。そして、ようやく独自のノウハウと呼べる「OM設計マニュアル」を送付できたのは、3月9日の会員募集説明会から77日後の5月25日だったのです。

OM設計マニュアルの制作は、OM部材の試作と共に、OMのスタッフが奥村事務所に詰め切り、奥村昭雄の指導を受けながら昼夜兼行で行われ、N設計室の越坂部幸子氏やアトリエ楽の野白麻理子氏、奥村事務所の仕事を手伝っておられた後藤京子氏や糟谷英一郎氏などにも手伝っていただきました。その後も、シミュレーションソフトの制作や中国南寧モデルの設計など、短期集中の作業が求められるときは奥村事務所での合宿状態になりました。

そのような多くの人たちの応援もあって、研修会場には何とかハンドリングボックスや棟ダクトを運び込むことができました。奥村はハンドリングボックスを前にして立ち、甲高い声で会員工務店に語り掛けていました。工務店は奥村を囲むようにして話に聞き入り、真剣な眼差しを産まれたてのハードに注いでいました。ハンドリングボックスにセットされる制御盤やシミュレーションソフトもこの時点では未完成でしたが、ハンドリングボックスと棟ダクトを見せることができ、第一回目の経営者会議、研修会は何とか無事に終えることができたのです。

13. 最初の量産型ハンドリングボックス誕生(1987年)

最初の量産型ハンドリングボックスは、その形から「お蚕さん」と名づけられた。最初の量産型ハンドリングボックスは、その形から「お蚕さん」と名づけられた。

最初の量産型のハンドリングボックスはその形から「お蚕さん」と呼ばれました。OMソーラーが誕生する前にもハンドリングボックスがなかったわけではありませんでしたが、合板などを使って一軒毎に現場で制作されているもので、大きい上に性能にバラツキもありました。工務店が取り組む場合、これをユニット化し、簡便に取り付けられるようにしなければなりませんでした。そのとき奥村は、暖炉の本(『住宅建築別冊5:暖炉廻りの詳細』)を読んで事務所を訪ねてきた男のことを思い出したのです。「煙突屋さんなんだけど、おもしろい人間がいる」と言い、試作品の制作を依頼することになりました。

試作品は試行錯誤しながら計4台つくられました。「これなら」と完成した4台目の試作品を見に来た石田信男の反応はあまりに象徴的でした。石田はあたりをキョロキョロ見廻して「ハンドリングはどこにあるの?」と聞きました。目の前にあるよと言われ、そのあまりの小ささに「えへーっ」と驚いたのです。石田は後にこの時のことを次のように語っています。「ソーラー研時代にハンドリングボックスをつくった経験がありますが、どうしても、ものすごく大きくなっちゃうんです。1メートル角よりも小さくできませんでした。小田原の菓子店で試みたハンドリングボックスは背の高さくらいだったし、既製品を探してもそれより小さいものはなかったから、やっぱりこんなに大きなものにしかならないんだと思っていたんだけど、見に行ったら実に小さいんだよ」。

現在のハンドリングボックスに比べれば、「お蚕さん」も随分大きく、後の経営者会議で展示した際に、参加者からどうしてこんなに大きなものをつくったのだと訝られたほどでしたが、当時としては画期的な小ささだったのです。その時、お蚕さんは20台ほど製造されました。

14. キャラバン隊(1987年)

最初の経営者会議、研修会が無事終了したものの、会員工務店の数は発足当初の18社から一向に増えていきませんでした。奥村たち建築家の面々は「上出来だよ。5年かけて30社もいけば大変なことだよ」と話していましたし、海外のパッシブソーラーの事例を見ても、一部の建築家や研究者、好事家の技術といった範疇を超えないものが多く、土着性が強いがために普遍性を持ち得ない技術、自己満足のレベルというものが少なくありませんでした。しかし、パッシブの考え方は、古来から日本の家づくりの根底にあったもので、この考えと技術は広く普及させてこそ意味があると考え、OMソーラー協会の活動として、全国キャラバンを始めました。

全国25箇所の主要都市に会場を設定し、あらかじめ説明会の開催を知らせるダイレクトメールを各地の工務店に送付しました。DMにはOMソーラーに関する記事の切り抜き、チラシ、説明会の開催概要・参加申込書のほか、“長文の文書”を入れました。長文の文書は、OMソーラーという技術について、OMソーラー協会、OM研究所についての説明のほか、「地域工務店の置かれた現状と展望に立って」と題して、苦戦を強いられている地域工務店の実情と、本来的な地域工務店のあり方、家づくりについて綴ったものでした。

送付から説明会まで時間がなかったため、参加申込書が届く前にレンタカーをキャラバン車に仕立てて全国7000キロに及ぶ旅に出発しました。最初の会場である札幌から函館、八戸、盛岡、仙台、福島、宇都宮、前橋、千葉、水戸の順で開催したものの、参加者がゼロの会場も1箇所ではありませんでした。東京の参加者は20人あまりと最多の参加者でしたが、ここでも成果は現れず、その後、横浜、静岡、甲府、松本と回り、10日間置いて後半戦に入り、山口県の徳山、広島、松山、神戸、和歌山、大阪、京都、岐阜、津、名古屋と回り、結局このキャラバンで入会されたのは3社のみという無残な結果に終わりました。しかし、このキャラバン隊の考え方こそ、のちのちのOMソーラー(株)の思想を支える重要な行動であったという評価があります。

15. 建築デザイン運動のはじまり/OMゼミナール(1987年)

OMソーラーが誕生したその年、事業体としてだけではなく、運動体としてのOMの活動が早くも産声をあげます。1987年11月17,18,19日の3日間を掛けて、箱根にて第一回OMゼミナールを開催しました。まだお金がなかった頃でしたが、講師として奥村昭雄、遠藤楽、山田初江、大石治孝、永田昌民、野沢正光、石田信男、秋山東一、中村勝、丸谷博男等々、豪華な顔ぶれに加え、当時建設省・建築研究所に在籍していた小玉祐一郎氏も登壇しました。

山田初江の歯切れのいい語り口、大石治孝の数寄屋建築の話は工務店にとって興味深い話だったようです。パネルディスカッションのテーマは「何を、どうしたらいい家になるか?」で、遠藤楽はフランク・ロイド・ライトの例を引きながら話し、小玉祐一郎氏からは「パッシブソーラーの話」がなされました。また、企画として開催された「建物見学会」では、奥村昭雄・丸谷博男の「大泉学園の家」、永田昌民の「中野の家」、石田信男の「小田原の菓子店」を見学しました。箱根から中野までバスによる長距離移動だったにも関わらず、会員工務店からの評判は良いものでした。

地域工務店と建築家、技術者、研究者が、こういう形で行動をともにすることはそれまでなかったことで、『住宅建築』編集人だった平良敬一は後に「OMソーラーは建築運動史上、稀に見る取り組みである。生産者である工務店が芯となり、住まい手と建築家が実に上手く組み合わされていて、しかもそれをつなぎ、結びつけているものが「設計」であり、「技術」であるところに、この取り組みの尋常ならざるユニークさがある」と評価されています。また、建築家の林昭男は、「これまで様々な建築運動が生まれては消えていったが、それらの中に建主、設計者、施工者を結びつけて進められた運動があっただろうか。OMの家づくりは、そうした面での新しさを持っていると思う」と述べられています。

16. 大失敗と希望/津山の家・釧路モデルハウス

釧路に建てられたOMソーラーのモデルハウス。厳寒の地・北海道での成果は、全国の工務店のやる気に火をつけた。釧路に建てられたOMソーラーのモデルハウス。厳寒の地・北海道での成果は、全国の工務店のやる気に火をつけた。釧路に建てられたOMソーラーのモデルハウス。厳寒の地・北海道での成果は、全国の工務店のやる気に火をつけた。夜のモデルハウス体感ツアーに参加した工務店たちは、OMの効果を確かめるべく、遅くまでその場を離れなかったという。

初めてのOMゼミナールを無事終えることができ、ホッと胸をなでおろしているときに待ち構えていたのが「津山の家」の大失敗でした。

OMソーラーが誕生した年の秋から、会員工務店が手掛けるOMソーラーの家の建築が本格的に始まりました。「津山の家」を施工した工務店は熱心な工務店の一社で、天竜川のモデルハウスを見て、その空間の広がりと大きな開口部に魅力を感じるやいなや、すぐに津山で再現しようと考えたのです。しかし、このときシミュレーションに用いられた気象データは「広島」のものでした。当時は現在のようなアメダスデータがなく、気象データは空気調整衛生工学会によって整備された「標準気象データ」で、データそのものは大変優れたデータだったものの、観測地点が限られており、全国で23地点しかありませんでした。岡山県津山市は、岡山県といっても内陸部の日本海側気候の影響を強く受ける地域でした。気象データの選択ミスは失敗の大きな原因となりましたが、原因はそれだけではありませんでした。当時はまだ断熱・気密の考え方が希薄で、津山の家は断熱・気密が甘く、開口部は天竜川モデルハウスを真似て大きく、しかもシングルガラスでした。

試運転したが暖かくならない。お施主さんは不満を募らせ、工務店は「君らにはノウハウも何もないのか」と怒り出し、「もうやめた」と退会されたのです。この工務店に対し、「津山の家」の問題点をまとめ、レポートを提出したものの後の祭りでした。この失敗を奥村に話したところ、奥村は「そういうことも起きるよ」と驚きもしませんでした。OMソーラー協会のメンバーは皆真っ青だというのに極めて平然としていたのです。

その後、鹿児島大学の二宮秀與氏、赤坂裕氏によるアメダス気象データの巧妙な処理が大いに貢献して、そうこうしているときに、今度は吉報が入りました。厳寒の地、釧路でOMソーラーの試運転をしたところ60℃を超える熱風が吹き出したというのです。津山での失敗の直後だったこともあり、俄には信じられませんでした。栃木県でもOMソーラーの建物の様子が芳しくありませんでしたが、釧路での成功を聞くや「釧路でやれるものが栃木でやれないはずがない」と工務店の社員が大挙して釧路へ行き、穴があくほど工事現場の隅々を見て回りました。

1988年、釧路で経営者懇談会が開催され、夜のモデルハウス体感ツアーが組まれました。全国からモデルハウスに集まった工務店の社長たちは、OMソーラーの効果を確かめるべく夜遅くまで動きませんでした。皆、自分が選んだ技術に太鼓判を押したい気持ちだったのです。半信半疑を覆す証拠を欲していたのです。釧路モデルハウスはその期待に見事に応えてくれたのです。この吉報を奥村に伝えたところ、やはり奥村は驚きもせず、感激の声を発するわけでもなく、当たり前のことのように受け止めていました。

17. OM成長物語へ。

メンテナンス講習会

「OM誕生物語」としては、このあたりまでのご紹介にしたいと思います。ここから先は、OMソーラーの成長の物語です。もちろん成長といっても順調なことばかりではありません。全国の工務店に希望を与えた釧路のモデルハウスでは、経営者懇談会の感激のあと、集熱温度が上がらないトラブルが発生しました。しかし、躊躇することなく解決のために釧路に飛んだ奥村たちの冷静な対応によって無事解決に至りました。

現在の経営者会議

パッシブの技術は机上が考えたことが現場でその通りにいくとは限りません。現場から産まれたアイデアが問題を解決することもあります。設計者と施工者は、どちらかが一方的に教える立場ではなく、互いに教え合い、互いに学び合う関係です。この関係こそがOMソーラーの技術を支えています。「まずやってみる」「失敗したらそこから学び、またやってみる」という「ソーラー研」の精神を、地域の工務店を巻き込んで実践していったのがOMソーラーという技術です。

現在の経営者会議

現在では経営者懇談会やOMゼミナールから発展した会議、勉強会が、誕生当時には想像もつかない多岐にわたる内容で開催されています。OMソーラーの部材やシステムも開発者による試行錯誤だけではなく、5年、10年経過した建物の検証や、住まい手からの生の声を聞きながら、改良・改善、そして新たな開発に取り組んでいます。

これからも大小さまざまな発見があり、失敗もあり、そしていくつもの新たな誕生を目にしていくことでしょう。成長とは、そんな発見、失敗、誕生の繰り返しだと思っています。この「OM誕生物語」をお読みいただいた皆さんには、これからの「OM成長物語」を温かく、そして厳しく見守っていただけることを心よりお願い申し上げます。

※本文中はすべて敬称略。
※組織名、社名等は当時のものを採用。OMソーラー協会は、2008年にOMソーラー株式会社へ社名変更。
※参考文献『奥村昭雄のディテール』(彰国社)、『OMソーラーの家』、『パッシブデザインとOMソーラー』、『建築設計資料/OMソーラーの建築』(以上、建築資料研究社)、『新建築/住宅特集1993.11』(新建築社)、『季刊・環境研究2010,No.156』(日立環境財団)、『チルチンびと別冊No.35』(風土社)、『SOLAR CAT,No.30』(OM研究所)